千年仏−SEN NEN BUTSU−
それは、千年先の未来を祈り、夢をのせ、願いながら平成15年に開眼した。
その物語を少しお話ししましょう。
大覺寺全珠院とは。

神話のヤマトタケル東征の舞台ともなった焼津。
西暦八五〇年、嵯峨天皇入江荘を開き、伝弘法大師作薬師如来(秘仏)を本尊として真言宗大覺寺が開創されました。
現在の「焼津市大覚寺」の地名としてこの地に残っています。
たび重なる天災地変を受け、大覺寺の法灯は九九八年、荘園郷主大覚寺屋敷「本家槇田家」の菩提寺として天台宗善修庵に引き継がれ、一五五七年、曹洞宗全珠院に改められました。
二〇〇三年には、本尊として新たに「焼津千手大観音」を迎え、今日まで法灯を伝えています。

実は今の形になるまでに、大きな決断と大変な苦労がありました。時は少し遡ります。
平成初期の全珠院

三十年前の平成五年。
焼津市大覚寺は梨や桑畑のなる長閑な村でした。
その村が大規模な区画整理を迎えることが決まりました。当時の大覺寺全珠院は、檀家数26家の小寺。寺の統廃合を余儀なくされましたが、当時の総代長そして開基槇田本家33代当主は諦めませんでした。
現住職・曾根宏規が大覺寺全珠院にやってまいりました。曾根住職は、神戸や茨城の大きな寺院復興事務長を務めており、その手腕をかわれ大覺寺全珠院にやってきたのでした。
村の皆様の願いはただ一つ
「過去千年守ってきたお寺をつぶすわけにはいかない。」
決断
当時31歳の若き住職と檀家26家は、大きな決断をします。
「未来千年続く、そういう寺にしていこう」
しかし課題が浮上します。
1、檀家数がすごく少ないこと
2、土地が狭いこと
3、金銭的に余裕がないこと
これらを解決し、その上で、千年未来に続くお寺を考えなければなりませんでした。

大きく動いたのは、開基家32代目大奥様の葬儀の席でした。息子である33代目当主・槇田弥男さんが「私が所有している土地を全部お寺に寄進するので、それでお寺を復興してほしい」と仰られました。
そして「生前、お袋もそれを望んでいた。お袋は自分名義の土地をお寺に寄進するつもりだった」と。
全珠院は、槇田家から3000坪の寄進を頂き、千年未来に動き出します。
木造で日本一の千手観音
住職は、千年未来を見据え考えました。
日本仏教は、この千年で大きく変わりを見せています。
この千年で変わらないものは・・・・??
ー仏像は千年間あり続ける。仏像だったら千年未来残るのではないか。
住職は開基家を筆頭に26家の檀家の皆様に宣言しました。
「仏像を、、、大仏を、、、
日本で一番大きな木造漆箔の大仏を迎えましょう」
それから、皆で京都などに大仏をお参りに出かけました。
京都・三十三間堂様へ行った際に、開基家三十三代は千手観音様の前で立ち尽くします。
その時間は2時間にも及びました。
住職が話しかけると、
「なあ方丈さん、やっぱり、うち(全珠院)の仏さんは千手観音だよね」
と、、、。住職はその一言で、千手観音造顕を志しました。

全珠院には、秘仏として998年に奉安された「千手観音像」がございます。
昔から親しまれ守られてきたお観音様です。
続く・・・・・
まとめた冊子などがございます。こちらご覧ください。千年仏縁起
